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2014年1月19日 (日)

№2216 中世埼玉の歴史を学ぶ

 【浦和社会生活大学】の今年第2回目の授業があった。講師は高橋千劒破(ちうね)という先生で、『歴史読本』の編集長をやっていた方だという。私は初めて知った。それにしても、2時間の講義を聞いたのだが、歴史への造詣の深いことを知った。

 はじめは黒田如水について語る予定のようだったが、今年の大河ドラマに採用され、どこでも黒田官兵衛について語られている、「今日は趣向を変えて、埼玉の歴史を話したい」とのことだ。とはいっても、1時間ほどは黒田官兵衛の話だった。

 受講生は200名くらいいたが、先生が「純粋の埼玉生まれの人はどのくらいいるか、挙手してみて下さい」というとパラパラとしか手が挙がらなかった。反対に、埼玉以外の出身というと、大半がそうだった。私も埼玉県人というより、埼玉都人といった方がいいかもしれない。

 埼玉に住んで37~8年になるが、ほとんど愛着がない。埼玉のことは、ほとんど知らないのだ。先生もそのことを意識していた。「私は葛飾柴又の生まれで、埼玉のことはほとんど知らなかった」という。あらためて勉強して、埼玉の魅力を知ったらしい。

 縄文時代、埼玉もそうとう奥まで海が広がっていた。浦和という地名は海のそばだったということだし、今でも海にまつわるたくさんの地名が散在しているそうだ。見沼田んぼも掘ると、貝塚などの遺跡が見つかるという。「秩父当たりでも、貝塚があるんですよ」というから驚きだ。

 縄文人は、刃物を黒曜石に頼っていたらしい。「その黒曜石の産地は、信州の和田峠だったということを知っていますか」というのだ。和田峠産の黒曜石は、関東のさまざまな貝塚遺跡で見つかっているようだ。

 関東の平野はほぼ湿地や葦原で覆われていた古代は、生活の場は秩父などの広大な山地だったという。秩父の山々と、多くの渓谷が流れる荒川こそが埼玉の原点だと強調していた。

 中世埼玉が、武士が勃興した原点という。木曽義仲が生まれたのは嵐山町だし、源頼朝が頼ったのは、埼玉に住む武蔵武士だった。今の比企郡に、比企尼という方がいて、源氏再興の後ろ盾になったようだ。今では歴史に隠れているが、頼朝を支えたのは弟の源義経とその兄範頼だったが、範頼が匿われていたのが吉見町の「御所」というところで、今でも字名に残っているらしい。

 埼玉にはいろいろな武士が出現した。『平家物語』に語られる熊谷次郎直実の「青葉の笛」などは、全くの嘘っぱちの話だと言っていた。

 江戸幕府に埼玉が見直されたのは、見沼田んぼの存在だ。広大な湿地を開拓して、食糧増産を計った。そこで計画されたのが、利根川から水を引く「見沼代用水」であった。西縁と東縁、その間を流れる芝川を結ぶ閘門が作られたのは、パナマ運河開通の180年も前だったという。

 先生の話しぶりも良かったが、歴史というのは聞いてみると本当に面白いもの、とあらためて思った。同時に、あらためて埼玉の歴史に目を向けてみようと考えている。

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