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2014年3月 8日 (土)

№2264 2月に読んだ本

 毎年2月は日が短いので緊張する。ぼんやりしていると、あっという間に日にちがたってしまう。最低月5,000頁は読もうという自分にとっては、うかうかしていられない。ちなみに、この5年間の2月の読了記録を見ると、次のようになる。2009年4,675頁、2010年3,750頁、2011年4,224頁、2012年4,587頁、2013年5,162頁。かろうじて、昨年だけが目標の5,000頁クリアだ。

 私の読書は、記録との勝負でもある。いつも【今月は何頁読んだのか】振り返りながら読書している。読書量が少ない時にはピッチを上げるし、多い時には緩める。そして、大概目標を達成している時には、安心してスピードがダウンする傾向にあるのは否めない。人間は怠ける動物だ、特に自分は。

 まあ、そんな事を考えながら2月も結構読書にいそしんだ。ゴルフが中止になったのも良かったのかな。2月は14冊・5,228頁の読了数だった。この5年間で見ても、最高だ。これには内幕があって、最終日の2月28日は一日400頁ほど読んで、ようやく目標達成だった。

 さて、それでは何を読んだのだろうか。具体的な書名を上げてみる。

浅田次郎『輪違屋糸里(下)』 文藝春秋 2004年5月刊

藤沢周平『蜜謀』 毎日新聞社 1997年3月刊

村山由佳『海を抱く』 集英社 1999年7月刊

浅田次郎『壬生義士伝(上)(下)』 文藝春秋 2004年4月刊

植松三十里『めのと』 講談社 2009年10月刊

宮本輝『流転の海』 新潮社 1992年11月刊

宮本輝『地の星』 新潮社 1992年11月刊

宮本輝『血脈の火』 新潮社 1996年9月刊

宮本輝『天の夜曲』 新潮社 2002年6月刊

宮本輝『花の回廊』 新潮社 2007年7月刊

宮本輝『慈雨の音』 新潮社 2011年8月刊

村山由佳『ADULT EDUCATION』 幻冬舎 2010年7月刊

坪内稔典『正岡子規』 岩波新書 2010年12月刊

Photo  今月の読書の最大特徴は、宮本輝「流転の海」の第6部までを読んだことに尽きる。この小説は、宮本輝の代表作になるようで、30数年にわたって書き続けられている。第六巻で完結と思って読んでいたら、ネットで検索する限り、さらにもう3冊ほど書き続けるつもりのようだ。どうりで中途半端な終わり方だ、と消化不良だった。

 それにしても、宮本輝は偉大なストーリーテラーだ。彼の小説を何冊も読んでいるが、読みはじめた一頁目から読者を飽きさせず、最後まで続くのが凄い。今回の「流転の海」も6冊で2500頁くらいあったのだが、あっという間に読んでしまった。記録を見ると12日で読了というから、2日で一冊の読書ペースだった。

 この小説は、愛媛県宇和島出身の松坂熊吾と彼の家族の、生涯にわたる話だ。この小説には、時代背景が書き込まれ、まるで昭和史を読んでいるかの如しだ。さらに、熊吾の魅力的な人物像に、ワクワクしながら読んでしまった。女房の房江、熊吾50歳で初めてできた子どもの伸仁、第7部以降どういう運命をたどるのか、続編も楽しみにしている。

Photo_2  先月の『輪違屋糸里』に次ぎ、矢張り同作家の『壬生義士伝』も印象に残った。私の読書記録をたどると、『壬生義士伝』は2000年5月に読んだようだ。しかし、あらためて読んでみると、前に読んだ記憶はほとんどない。ほとんどの読み終わった本がそうなのだが、読み終わるとすぐに忘れてしまうというのが、ボケの兆候か。まあ、それでも頭の体操と、読み続けることはやめないつもりだ。

 このタイトルから想像するに、新選組の話のようだが、新選組の一人吉村寛一郎の生涯にわたる話を、明治以降に関係者が思い出話として語る形式がとられていた。背景には、江戸末期の下級武士の置かれている貧しい生活があった。

 吉村寛一郎は、盛岡藩の二駄二人扶持の武士だった。学問を修め、武道にも優れた人物だったが、なにしろこの扶持では家族を養えない。とうとう脱藩を決意して京都に上った。佐幕勤皇の意思が強かったというわけではなく、とにもかくにも金を稼ぎ、田舎に送金することに迫られていた。『守銭奴』と罵られようがどこ吹く風。ひたすら金を稼ぐのに邁進した。

 ただ、江戸末期。薩長の勢いにはかなわない。鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍はチリジリになる。盛岡藩の大阪屋敷に逃げ込んだ吉村は、幼いころの学友大野次郎右衛門に切腹を命じられる。大野も彼の境遇をよく知っていて、まさに泣いて馬謖を斬るの心境だった。この小説は、彼の息子にまで及んだ。函館戦争まで描かれ、江戸末期から明治にかけての時代が良く読みとれて、大変面白かった。

 最後に、『正岡子規』について、俳句同好『桟雲の会』に掲載した文章を転載したい。これは俳句の会の課題で、会員が交代でエセーを書いている。今回のタイトルは「私の気になる俳人」で、私は坪内さんの新書を読んで、以下の感想文を書いたものである。

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

正岡子規の代表的な俳句である。たしか中学校の教科書に載っていたと記憶する。実をいえば、私はこの句会に入会するまで、俳句といったら、知っているのはこの句くらいのものだった。ただ、子規のことはずっと気にはなっていた。

今では考えられないが、子規は34歳で亡くなった。原因はその当時の死病といわれた肺結核である。発病したのは22歳だった。発病が分かった時、本人は寿命を今後10年と覚悟したようだ。本格的に俳句をはじめたのは発病が分かってからだ。そして、彼が生涯に残した句は、二万三千句だという。文章も短歌も書いたというから、物凄い精力的な活動だ。

子規は、俳句で沢山の大事な方式を試みている。「一題十句」などもその一つだろう。一つの題で十句を作句する方式

だ。これは、蕪村の作句で思いついたものではないか。さらに、子規は芭蕉よりも蕪村の俳句、俳画を愛したようだ。

子規は「徹底的な写生」を提唱し、俗受けのする句、曰く付の句を「月並な句」として排除した。例えば、松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」など有名な句も、月並句だという。子規のその覚悟を知るべきか。

掲句の「柿くへば」には、子規の必然性があった。柿が大好きだった子規は、一度に五個も十個も柿を食っていたという。ただ、この句は発表当時、それほど話題にはならなかったらしい。子規の足跡をたどると、Yamahiko先生の口を酸っぱく言うことも、なんとなくわかる気がする。

子規の周りには、重畳たる山脈というべき人脈があった。漱石や伊藤左千夫、弟子筋では河東碧悟桐、高浜虚子などである。虚子などに見守られながら谷中の自宅で亡くなったのは、明治35年である。絶筆句は、以下の句だった。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

 

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