№2717 古希の祝いの会
金沢旅行が楽しかったので、延々と書いてしまった。この日の記事は、5月31日(日)の出来事だ。4日も経つと、ずいぶん前のような気がしてきた。
新潟のホテルを朝8時過ぎに出発し、秋田に向かった。この日は、田舎の同期の仲間で【古希を祝う会】がある。さて、どういうメンバーで何人集まるのだろうか、再会が楽しみだ。前回は還暦の会だったから、10年ぶりだろうか。
会場の由利本荘市【ホテルアイリス】には、午後1時前に着いた。すでに大勢の仲間が到着していた。東京からの仲間も大勢いた。軽トラックでやってきたという豪の者や、前日すでにホテルに入っていたという人もいた。
開会は午後2時である。事前に参加メンバーの一覧表が渡された。それによると、男28人女36名の計64名の参加である。男よりも女が多いというのも私たちの年代をうかがわせる。私がお会いしたかった北海道の仲間は、残念ながら参加していなかった。
午後2時に全員で記念写真を撮り、開会になった。会長の挨拶で、無事この会を開催できた世話人の苦労がしのばれた。会員に何度も連絡を取り、ようやくこの人数にまでなったらしい。
続いて「物故者への黙祷」が行われた。わが同期は、小学校に入学した時には130人前後いた。そして、この間22名の方が亡くなったと、名前が読み上げられた。この一年でも2名ほど亡くなったらしい。この数を多いとみるべきか、少ないとみるべきか、複雑だ。
乾杯に立ったのは、千葉から駆け付けたMiyokoさんだ。彼女とは、小学校の時に一緒に机を並べた仲間だ。彼女にはいたずらばかりしていた、という思い出だけが残っている。
乾杯が終わり、参加者が一人3分間ずつのテーブルスピーチをした。懐かしい話がずいぶん出ていた。Hirokoさんが、「担任の大場先生が『鉄仮面』を読み聞かせしてくれたことは、今でも忘れられない」と話していた。そうそう、私も強い印象に残っている。
私は、その大場先生によく叱られ、一度両手に水の入ったバケツを持って廊下に立たされた思い出がある。42歳の年祝いの会に参加した先生にその思い出を話したら、「あら、そんなことがあったの。覚えてないわ」と話していた。その先生も、いまは亡い。
Kunikoさんが病床に見舞いに行ったら、「先生はシンさんのことを覚えていたわよ」と言っていた。あれだけ悪さをしたのだから、覚えていたのだろうね。
「会いたかったわ」と寄ってきたのがTsuyakoさんだ。中学卒業以来、彼女としみじみ話したことはなかった。「あなたの父と私の父は大の親友で、いつも行き来しては酒を飲み交わしていたことを思い出す」そうだ。
それにしても、70歳も近いというのに、みなさん若いね。昔は70歳というとジジババになっていたと思うが、今は信じられないほどにつやつやしている。もちろん、腰の曲がっているような人は一人もいない。さらに、女性は美人だ。今でも【秋田美人】といわれてもおかしくない。
3分間挨拶でこもごも話していたのは病気の話だ。ここまで生きていると、そりゃ悪いところの一か所や二か所はあるんじゃないの。
席を移して二次会になった。そこで出会ったのは、いとこ二人だ。JunとRitsukoだ。二人とは母や父が兄弟だった。いとこ同士がこうやって並んで写真に納まったのは、初めてのことだ。
Ritsukoの話によると、今でも盛大に「いとこ会」をやっているとのことだ。父母の兄弟で、唯一生きている伯父さんが横浜に健在だ。ただ、最近ぼけてきたという。「元気なうちに、いとこ会を横浜でやってはどうか」と提案しておいた。
懐かしい話がたくさんできたね。実家の向かいに住んでいたJunkoさんとは、幼い時からの遊び仲間だった。彼女の実家は造り酒屋だ。その敷地が、格好の遊び場だった。
中学校時代に机を並べたことがあるらしい。私は、今まで誰にも話していなかった高校進学の秘密を彼女に話した。50年以上も前の話だ。こんな話ができるのも、幼馴染だからだね。
座が盛り上がって、カラオケや踊りがどんどん出された。とはいっても、私は話に夢中になって、ほとんど歌は聞いていなかった。
閉会の午後8時があっという間にやってきた。心を残しながら、万歳三唱でお別れをした。次の会は、7年後の喜寿の会だという。
それまで、皆さん元気で再会しましょう。
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