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2016年6月17日 (金)

№3097 最後の旅は宗谷岬

 4泊5日の旅も、とうとう最終日である。朝8時20分発の利尻島から稚内行きのフェリーに乗った。稚内に着いたのが午前10時10分だ。サロベツ原野を案内してくれたガイドのHikitaさんが待っていた。最後の旅は、彼女の案内で宗谷岬を巡る予定だ。フェリー乗り場で、先発で東京に帰るという親子と別れた。

Img_1101  そして、一日目に借りたマイクロバスを再度借りた。宗谷岬に向かう前に、昼食を摂ろう。少し時間があったので、フェリー乗り場からすぐのところにある副港市場にある記念館で、ビデオを見た。「樺太の悲しい歴史」が映されていた。

 樺太では、戦争が終わった昭和20年8月15日から悲劇が始まった。ソ連軍が攻めてきて、住民を無差別に銃撃していったという。略奪やレイプもひどいものだったらしい。

Img_1102  さらにひどいことに、引き上げ船に潜水艦攻撃をかけ、3隻の船を撃沈し、何百人という死者を出したとのことだ。広島・長崎の原爆被害の話は伝わっていても、このような無道の被害の話はなかなか伝わらない。重苦しいビデオであった。

 シベリア抑留の無道といい、終戦直後のソ連は許しがたい行動をたくさんしでかした。

 さて、お昼ご飯にしよう。副港市場に併設されているレストランで食べた。それぞれ注文したものは、ものすごいボリュームだった。私の隣に座ったMaayaは、かき揚げ丼のダブルを頼んだ。大きなかき揚げが2枚もついていた。本当にこれを食べるの。彼女は「私は少食なのよ」と言っていたが、お裾分けなどしたが、結局ぺろりと平らげていた。

 ここで、この旅全体をコーディネイトしてくれたKuniyasuさんご夫婦とは別れた。彼らは息子を訪ねて、旭川に向かった。本当に、この旅はKuniyasuさん抜きでは考えられなかった。

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Img_1112  16人+ガイドで、最終目的地宗谷岬に向かった。稚内からは30㎞ほどだ。途中、間宮林蔵が樺太に向かった場所に立ち寄った。この海岸沿いで目を凝らしてみると、かすかに樺太の島影が見えた。46kmほど彼方だそうだ。

 この地には、間宮林蔵の銅像も立っていた。ご存知のように、間宮林蔵は樺太を踏破して、ここが島だと発見した。われわれが勉強したのでは、この海峡を【間宮海峡】と呼んでいた。今はタタール海峡と呼ばれている。その来歴を読むと、間宮はそのあと大陸に渡り、アムール川の探索も続けたらしい。

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 この地から宗谷岬はすぐだった。とうとう日本最北端の地に到達した、という感慨が一入湧いた。しばらく佇み、海のかなたの樺太を眺めいった。

Img_1118Img_1123Img_1122  日本最北端の地だろうか、いろいろな碑が建っていた。「宮沢賢治文学碑」「ラペルーズ顕彰記念碑」など、数えてみたら14個ほどあった。ガイドのHikitaさんは「最北の地というので、これだけ多くの碑が建ったのではないか」と話していた。

 宗谷岬ということで、もちろん灯台があった。その野原で野生のキタキツネが遊んでいた。参加者一同、キタキツネを見たて、また歓声を上げていた。

 ダ・カーポが歌った『宗谷岬』の歌碑も建っていた。「流氷とけて 春風吹いて ハマナス咲いて かもめも啼いて~~~」という懐かしい歌だ。

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Img_1125  さて、宗谷岬を出て、向かったのが【宗谷丘陵】だ。岬の裏側には、延々と草原が広がっていて、牧場には牛が飼われていた。黒毛の牛だ。誰かが、「北海道らしい風景だね」とつぶやいていた。

 牧草地には、点々と野生の鹿が草を食んでいる姿も眺めることができた。さらに、丘には電力を取るため、多くの風車が建っていた。のんびりした風景が続く。この風景を見ながら、稚内空港に向かった。空港に着いたのが午後3時だった。予定時間通りだった。

 そして、午後4時30分発の羽田行き便で、無事帰ってきた。20名の大団体だったにもかかわらず、何の事故も障害もなく旅が出来たことに、主催者一同ホッとした。

 

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