カテゴリー「東日本大震災」の7件の記事

2019年3月11日 (月)

№4103 東日本大震災から8年

 2011年3月11日の午後2時46分、三陸沖中心で発生したマグニチュード9の大地震。あれから今日で8年になる。1000年に一度起きるかどうかという大地震だった。地震の揺れもひどかったが、その後の津波で甚大な悲劇が出た。

 いつもこの日のことを思い出すのだが、あの瞬間は忘れられない。私は、那須で畑を耕していた。珍しく、向かいのOhnoのお父さんが畑に顔を出し、畑談義をしていた。お父さんが帰って間もなく、眩暈のようなものがして、頭がクラクラとなった。

 あれ、体の不調かなと思った瞬間、畑の地面が大きく波打った。周りの大木もゆさゆさ揺れて、地震が起きたことが分かった。まともに立っていられなくて、鍬の柄を支柱にしてつかまっていた。結構長い揺れだった。

 それも一段落して、再度畑を耕し始めていたら、近所のShiratakiのお父さんがやってきて、「大地震が起きた。畑を耕している場合じゃないよ。家に帰って、被害の確認をしたらどうか」という。そんな大地震かと思い、『あるるのいえ』に帰ってみた。

 幸い、自宅は茶碗が2~3個落ちた程度で、ほとんど被害はなかった。Ohnoさんの家に行ってみたら、棚からお酒が零れ落ちていて、家中酒の匂いがしていた。まあ、その程度の被害だったのだが、聞くところによると那須の岩盤は堅く、今までも地震の被害はなかったとのことだった。

 テレビをつけてみたら、丁度釜石や石巻等で津波が襲ってくるのを実況中継していた。車や家が流されていくのを、目の当たりに見た。こんなにショッキングな印象深い映像は初めてのことだった。強烈な印象とともに、流された家の人は無事避難できたのか、不安が襲った。その日は、一日中テレビにくぎ付けだった。結局、22000人以上の死者・行方不明者が出た。

 津波や地震での被害はこれはこれで甚大だっのだが、この8年、福島原発の爆破炎上の事故被害は、われわれの想像を超えるものであった。私なども、それまでは原発は必要悪と考えていた。それが、まだ発展途上の技術で、原発を人類が完全にコントロールできていないことを露呈した。

 「安い」はずの原発が、この間何兆円もの被害を生むことになった。潔く原発を放棄したらいいようなものだが、政府は離したがらない。原発事故後、原子力発電所は次々と休業に追い込まれたが、決定的な電力不足は生じていない。原発がなくても、電力需要は賄えているのだ。

Img_80031 Img_79961  私は、ボランティアで被災地を3度ほど訪れている。何かが出来たというわけではないが、自分の眼で被災地を体験したのは大きかった。特に印象に残ったのが、石巻の大川小学校の被災現場だ。生徒・先生を含め98名が、津波の被害で死亡した。

 現場を見て強く思ったのが、なぜ裏山に逃げなかったかということだ。小学校の脇は北上川の下流にあり、その河を伝わって津波が押し寄せたのだ。津波が来たときは、生徒は校庭で避難指示を待っていたようだ。そんな暇があったら、さっさと裏山に逃げたらよかったものの、とものすごく残念な思いがした。

 東北再生はまだまだ道半ばだ。今年は、秋に釜石のワールドカップラグビー観戦に行ってくるつもりでいる。改めて、被害現場も観てきたい。

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2018年9月 6日 (木)

№3914 災害大国日本

 この二~三日、日本は自然災害の大国であることをつくづく実感する。

 今朝3時8分、北海道で震度6強の大地震が発生した。ちょうどその時、私は目覚めていた。ちょっとした揺れで地震かなと思ったが、そんなに大きな揺れでもなかったので、そのまま寝てしまった。

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 今朝起きてニュースを見たら、北海道はとんでもない大地震で、大きな被害が出ているようだ。北海道というと「十勝沖地震」を思い出すが、今回の地震はそれよりも大きかったらしい。現在進行形なので、今後どのような被害になるかはわからない。

 それでも、北海道全体295万戸の停電が発生しているようだ。識者が言うのを聞いていたが、これほどの大規模な停電など聞いたこともないようだ。火力発電所の運転停止がもたらしたもののようだ。こういう事態になってはじめてわかるのだが、システムの大きな間違いではないだろうか。

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 台風21号の被害も、間近に目にしている。今回日本に上陸した台風では、昭和9年の室戸台風、昭和36年の第二室戸台風に匹敵する強さだったらしい。テレビで見ていると、車が風に吹き飛ばされる映像が映っていた。関空では、58メートル強の風が観測されたという。

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 関西国際空港の滑走路は高波で水没し、アクセス道路はタンカーの激突でひん曲がってしまった。空港内には、5000人もの人が取り残されたという。陸の孤島で一夜を明かした人々は、一様に疲れ切っているようだった。

 それでも、人的被害が比較的に少なかったのはよかった。昭和9年の室戸台風では死者・行方不明者が約3000人、昭和36年の第二室戸台風では同じく死者・行方不明者が200人強であったという。今回の台風では11名の死者が確認されているようだ。

 今回の台風、および今朝の北海道地震を通して、情報の大切さが痛感される。昭和9年の室戸台風では、軍が意図的に情報を隠し、これだけの被害になったようだ。昭和36年の第二室戸台風でも、今ほどの情報はなかった。

 今朝の北海道地震で大規模停電になっているが、皆さん情報はSNSとかLINEで共有しあっているようだ。また、車のラジオで情報も得ているということだ。ただ、停電しているので、スマホの電源確保もどうやってやるのか問題である。

 今後も、日本は不測の災害が予想される。普段から、その大災害に備える心構えだけは持っていたいものである。

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2018年8月16日 (木)

№3893 心温まる出来事

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 嬉しい出来事があった。山口県防府市で、三日間行方不明だったという2歳の男の子が、無傷で無事発見されたニュースである。発見した人は、大分からボランティアで探しに来たという尾畠春夫さんという方だ。

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 ニュースを見ると、彼はやむに已まれずに防府市に駆け付けたという。谷沿いの石に座っていた男の子を見つけて、思わずよかったと快哉を叫んだらしい。それにしてもすごいボランティアがいたものだと感心した。待てよ、この尾畠さんはどこかで見たことがあるな、とふと思った。

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 仲間のOnちゃんから電話があり、「防府で子供を見つけた尾畠さんは、われわれが南三陸町にボランティアで出かけたときに出会った人だよ」と言っていた。改めて、私ののブログをチェックしてみた。たしかに尾畠春夫さんである。お会いしたときは、背中に大きな背番号のようなものを書いていた。

 写真を撮ったのは、2012年6月1日である。南三陸町には、彩の国いきがい大学の仲間10人ほどでボランティアに出かけた。ボランティアセンターで仕事待ちをしたときに出会ったのが尾畠さんだ。

 彼は大分から軽自動車で駆け付け、3か月ほどその軽自動車に寝泊まりをして、ボランティア活動をしていた。すごいですね、と声を掛けたら、「南三陸町に来たのは今回初めてではなく、もう3回目だよ。500日も滞在しているよ」と言っていた。その強烈な個性とともに、彼のことはよく覚えていた。

 Onちゃんからの電話で、私のブログを改めてチェックしてみた。そしたらその日の記事に、「私がボランティアで南三陸町に行ったら、大分から軽自動車で駆けつけ、その車に何カ月も寝泊まりしながら支援を続けている、という70歳くらいのおじさんに出会った。私たちの眼には見えないが、たくさんのこういう人たちがいるのだろう」と、ブログには書かれていた。
 新聞記事を読むと、尾畠さんは現在78歳だという。もう6年も前のことだから、
われわれがお会いした時には72歳だったのだ。それにしても、人の出会いというのは面白いものだね。

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2016年4月17日 (日)

№3036 九州の大地鳴動

 九州の大地が震えている。熊本を中心に、大分なども含め、大きな地震に見舞われている。震度5以上の地震が度重なって起きている。今回初めて知ったのだが、14日(木曜日)に益城町で起こった地震は【前震】といい、16日(土)の未明に起きた地震が【本震】だという。しかも、益城町に続いて起こった本震は前震の16倍で、何と神戸・淡路大震災と同じ大きさだったらしい。

 九州では、大きな被害が出ている。死者や怪我をした人も多い。家の倒壊、火事、山崩れ、土砂崩れ、高速道の土砂崩れ、鉄道の脱線事故等テレビ画像で見る限り凄いものだ。その象徴が熊本城だ。熊本城はその壮麗さで知られていたが、無残にも崩れた。天守閣の瓦がほとんど落ち、石垣が崩れ、櫓が今にも崩れ落ちそうになっている。振動の激しさを物語るものだ。

 現在進行形なので断定はできないが、それにしても思うのは、日本という国は大きな断層帯の上に乗っかっている。今回の地震が起きたのも、中央構造体という日本列島を貫く大断層帯の一角だそうだ。そのエネルギーの凄さは、地面に1mもの断層を生じさせている。

 不気味なのは、震源のすぐそばに大火山の阿蘇山があることだ。この地震に触発されて、大きな噴火が起きなければいいのだが、と思う。九州に住む人たちは、どれくらい不安な日々を送っていることだろうか。同情を禁じ得ない。

 今後、日本列島には【南海トラフ地震】、【東海地震】、【東京直下型地震】、【富士山の噴火】などが予想されている。われわれ日本人は、こういう島に生きている。普段から備えを怠ってはいけない。

Dsc00516  わが家は災害に備えて何もしていなかったが、この地震をきっかけに、少なくと家具にはつっかえ棒で押さえぐらいはしておこう。以前からやらなければと思っていた。思い立ったが吉日で、早速、近くの大型雑貨店でつっかえ棒を3個買ってきた。

 倒れそうな食器棚、タンス、本箱の上につっかえ棒で支えを作った。特に、本棚はガラスのトーハンがあり、本が倒れたら大変だ。

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Dsc00519  ただ、天井に届くほど高い本棚に入るうまいつっかえ棒は売っていなかった。これには本を隙間なく当てて、つっかえ棒代わりにした。さて、これでどうだろうか。

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2016年3月11日 (金)

№2999 東日本大震災からもう5年

 この日で、【東日本大震災】発生5年になる。いまから思い出しても、大きな地震だったね。マグニチュード9以上もある地震など、1000年に一度だという。私は、そういう歴史的大事件に直面したことに感慨を覚えた。

 当日のことを思い出すと、私は那須の畑を耕していた。珍しいことにOhnoのお父さんが、畑にひょっこり顔を出した。しばらく畑談議をして、お父さんは帰って行った。

 そして間もなく、めまいがした。あれどこか体の具合がおかしいかな、と思う間もなくグラッときた。地面が、大きく波打って揺れた。私が経験したこのような地震は、新潟地震以来だ。近くの大木も、ゆらゆら揺れていた。その揺れは、結構長かったね。これは大きな地震だと直感した。

 それでも、揺れが収まったので畑を耕していた。そしたら、近所の方が「大きな地震なので、自宅に帰って被害を調べてみたらどうか」と助言してくれた。早速自宅に帰ったが、幸い被害は、棚から皿が一枚落ちた程度だった。やれやれと思いながら、Ohnoのお父さんの家を覗いてみた。棚から酒の瓶が落ちて、家中酒の臭いがしていた。

 テレビを点けてみたら、津波の映像が生々しく映っていた。映像で私が衝撃を受けたのは、仙台郊外の名取市の農家が津波に浚われていく様子を見ていてだ。多分何も知らないで、あの農家にはまだ住人が住んでいるのだろうと想像した。

 あとで知ったのだが、逃げ遅れて津波に浚われた人が何万人といたのだ。次々と衝撃的な映像が、リアルタイムで映されていく。ドキュメント映像のこれほどの迫力を、過去に私は知らない。その後、様々な映像が公開されるたびに、いたたまれない思いをした。しかし、どうにもしようがない。

 そして、福島原発が津波でメルトダウンを起したことを知ったのは後々だ。ただ、津波での被害なら、これもひどいものだが、普及の手立てがある。ただ、原発災害だけはどうしようもないことだった。東電や原発の関係者は【想定外】というが、それじゃ取り返しがつかない。

 5年経って思うにつけても、原発は未だもって人類のコントロール下にはない技術だ、ということだ。こういう不完全な科学技術をいつまでものさばらしてはいけない、と強く思った。いまでも、原発事故には手をつけられずにいる。安部首相は、「完全にコントロールされている」と全世界に公言したが、とんでもない話だ。

 小泉前首相が、「原発は廃棄すべき」と運動を起こしているが、彼の政治信条には同意しないが、この一点にだけは完全に賛成したい。一昨日、大津地裁で【高浜原発の3・4号機運転差し止め】の仮処分の判決が出た。世の中の流れを受けての判決だと思う。

 電力会社は、採算性の高い原発はどうしても運転したいようだが、原発事故を想定しない採算の話だ。このことを判断するのは電力会社ではなく、政治だと思う。小泉さんも言っているが、「安部首相が決断すれば済むだけ」と言っているが、まさにその通り。もう一度、小泉を首相に戻すか。

2011_0602_090317img_8003 私は、この5年間で二回ほどボランティアで現地に行ってきた。一度は仙台郊外の多賀城で、もう一度は南三陸町だ。何ほどのことが出来たということはないが、現地をこの目で見てきたことは大きかった。特に石巻郊外の大川小学校の被災地には、胸が塞がれた。

 今年、彩の国いきがい大学の仲間で、再度、被災地を見て歩く一泊旅行をしよう、という企画が持ち上がっている。私は大賛成だ、ぜひ行ってみたい。

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2015年3月11日 (水)

№2633 東日本大震災から4年

 この日で、東日本大震災が起こってから丸4年になる。被災者はもちろんそうだが、この4年で様々なものが様変わりした。

 人間は忘れやすい動物だ。何が起こったのだろうか、あらためて2011年3月の私のブログ記事を読んでみた。読んでみたら、20,000人弱の死者行方不明者が出たのは、この時点ではまだ分かっていない。震度も8.8と書かれている。実際は震度9だった。

 1000年に一度といわれる巨大地震だった。いまでも、リアルに津波が街を飲み込むテレビ画面は、忘れられない。波に飲み込まれていく人の姿が映し出されていた。多分、助からなかったのだろうね。

2012_0531_083135p5310007 この4年、私は被災地を4度ほど訪れた。ボランティアとしても仲間と連れだって、2度ほど行った。私に何ほどのことが出来たとも思わない。ただ、あの被災現場の生の姿を見ただけでも、凄い地震だったと実感した。

2012_0603_094807img_7997 被災現場で一番むごいと感じたのは、石巻の大川小学校だ。学校の校庭で、80人あまりの生徒先生が犠牲になった。地震が起きて、しばらく校庭に並んでいる間に、津波に巻き込まれたという。この学校のすぐ裏山は、充分に津波を避ける高さがあったのに、その裏山には逃げなかった。今から考えると想定外の津波だったのだろうが、なぜ逃げなかったのか考えると、それにしても悲惨だと思った。

 地震での最大の被害は、福島原発の事故だ。これも想定外と関係者はいっているが、原発事故の悲惨さに思い至らなかった関係者は、いくら責められても責め足りない。【原発は安い電源だ】と従来からいわれていたが、いったん事故が起きてしまうとこれほどコストのかかるものはない、と肝に銘じるべきだ。

 この事故を経験した日本こそ、世界に向かって原発廃止の旗振りをするべきなのだろうが、相変わらず原発再稼働を唱えているのはどうしたことだろうか。原発事故以来、原子力発電所はほとんど動いていない。それにもかかわらず、日本の電力は賄われていた事実がある。少々コストがかかっても、原発はやめるべきだ。

 原発には、もう一つ、解決できない大きな問題がある。原発から出た廃棄物だ。放射能を含んだ廃棄物の処理法がないのだ。従って、廃棄物は垂れ流されている。小泉元総理が「原発やめるべき」と提言しているが、彼の主張に同調できない私にも、この点だけは一致できる。

 未だ10万人に上る行き所のない被災者がいる。一刻も早い復興を願うのが、皆さんの一致するところだ。

2012_0601_082059p6010001 心強い点もある。随分多くの方が、ボランティアとして被災地の支援に乗り出したことだ。私たちがマスコミを通じて知る以上に、被災地に乗りこんでいる人がいる。私がボランティアで南三陸町に行ったら、大分から軽自動車で駆けつけ、その車に何カ月も寝泊まりしながら支援を続けている、という70歳くらいのおじさんに出会った。私たちの眼には見えないが、たくさんのこういう人たちがいるのだろう。

 何しろ1000年に一度の歴史的な災害に立ち会ったわれわれであるが、これからも自分が一体何が出来るのかを一生懸命考えて行きたい。

 

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2014年3月11日 (火)

№2267 東日本大震災、あれから3年

 2011年3月11日に起こった【東日本大震災】から、今日で3年がたった。この震災は、どうしても、わがことに引き寄せて考えてしまう。

 あの日のあの時刻は、那須で畑を耕していた。ジャガイモを植えるためだ。珍しく向かいのOhnoのお父さんが畑にやって来て、耕作の指導をしてくれた。20~30分もいただろうか。彼が帰って間もなくだ。

 頭がクラクラして、眩暈を感じた。いけない、脳に異変が起きたかなと思う間に、畑の周りの大木がゆさゆさ揺れはじめた。風ではないようだ。そのうち、大地が大きく波打った。立っていられずに、思わずしゃがみこんだ。大きな地震だ。しかも、揺れは結構長く続いていた。地面が波打つ経験は、新潟地震以来だ。

 しばらく地面に膝まづいていたが、揺れが収まったので、再び畑を耕し始めた。そしたら、隣の畑の方が、「大地震が起きた。畑を耕している場合じゃないよ。すぐに自宅に帰って、点検をしたらどうか」とアドヴァイスを送ってくれた。それもそうだ、と急いで帰った。

 自宅は、別段被害がなかった。皿が2~3枚落ちて割れた程度だ。Ohnoさんちに顔を出してみたら、彼の家は大変なことになっていた。棚の上に置いていたお酒のビンが全部床に落ちていて割れ、アルコールの匂いがぷんぷんしていた。

 どういう地震だったのだろうか、テレビをつけてみた。リアルタイムで被害が放映されていた。石巻の街だったろうか、街に津波が押し寄せてくる様が画面に映し出されていた。これは大変な地震だ。画面が変わって、のどかな宮城県郊外の農村風景が映っている。だだっ広い田んぼに津波が押し寄せてきていて、農家を飲みこんでいく。あの家には、何も知らない人が住んでいて、津波に飲みこまれているのだと思うと、いたたまれなかった。その農家の姿が、私の【東日本大震災】の原風景である。

 私は、この3年間に三度被災地を訪れた。そのうち二回は、被災地支援ボランティアだ。一度は宮城県の多賀城、もう一度は南三陸町だ。自分が何かできるというよりも、いたたまれない気持ちが先に立った。いずれも3泊4日だ。

 そして、心に深く残ったのが石巻市の大川小学校の被災現場(クリックでその記事に行く)だ。児童74名、教職員10名の尊い命が津波に奪われた。現場に行って、何より最初に思ったのは、なぜ裏山に逃げなかったのか。校舎のすぐ裏には高い山があり、道も出来ていた。それを、みすみす校庭で50分も待機し、挙句の果てに波にさらわれた。お話を伺うと、避難場所は北上川の堤防で、結局はその避難場所も波に浚われたようだ。

 今朝の新聞を読んで、大川小学校の遺族は損害賠償の訴訟を起こしたという。被災現場で悲痛な顔で一心に祈っている遺族を見たら、返せる命なら返してあげたいものと、痛切に思った。それにしても、とっさの判断ミスがこのような犠牲を生むものと、やりきれなかった。せめて、裏山に逃げていたら。しかも100メートルくらいの距離をだ。

 大川小学校ほどひどくはないとしても、こういう事象は、この3年間たくさんあったのだろう。人災事故の最たるものは、福島の原発事故だ。原発事故は一度起きてしまうと、どれだけ広範囲な被害を生むのか、嫌というほど分かったはずだ。3年間、未だ手のつかない被災現場が沢山ある。【原発のエネルギーは安上がり】という議論があるが、この事故で、金額に換算してどれほどの被害があったのか。これも計算に入れて、【安上がり】という声はどこから出てくるのだろうか。

 原発再稼働や新しい原発の設置を叫んでいる人がいる。残念ながら、原発は制御不能のときの対処の仕方が完全でない。こういう人知では及ばないテクノロジーを再度稼働しようという人の気持ちは分からない。さらに、新たな原発設置をと言っても、どこに建設できるというのか。その土地で大反対運動が起きるのが、目に見えて分かる。

 いざ事故が起きた時の汚染水処理さえできない人間が、【再稼働】と叫ぶ時、怒りを覚えるのは自然な感情である。

 住んでいた場所に帰れない避難民が、未だ23万人もいるという。災害対策は、道半ばにも行っていないということだ。何は出来なくとも、せめて心は被災者と一緒にいたいものだと思う。

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