№4462 東日本大震災から9年
2011年3月11日午後2時46分、東北は突然大地震に見舞われた。マグニチュード9というとんでもない大地震だった。私は、その日のことはよく覚えている(その日のブログ記事)。このブログでも何度か紹介したと思うが、那須で畑を耕していた。多分、今の時期だからジャガイモを植える準備をしていたのだと思う。その畑に、珍しくOhnoのお父さんが顔を出した。そして、彼の幼少期の話を聞いていた。
お父さんは、島根の貧乏百姓の家に生まれ、子どもの頃は畑仕事の手伝いが日課だった。そして大きくなったら、決して畑仕事をしないと決意したのだそうだ。その後、鍬など持ったことがないと話していた。そのお父さんが帰ってすぐ、何か頭がくらくらして、眩暈のような症状が出た。あれどこかおかしいかなと思っていた瞬間、大地が波のように揺れた。周りの樹木もざわざわ揺れていた。大地が波を打つ初めての経験だった。
結構大きな地震だなと思っていた。長い揺れだったが、その揺れも一段落したので、再度畑を耕し始めた。そしたら隣りの畑のお父さんが、「大地震が起こった。畑を耕している場合などではない。すぐに家に帰って、自宅の点検をするべきだ」と忠告してくれた。そんなに大きかったのかと驚き、改めて『あるるのいえ』に帰った。幸い、自宅は食器が2~3個落ちて割れている程度だった。ただ、向かいのOhno家は酒瓶が棚から落ちて、家中酒臭かった。
さて、どうなのかとテレビを点けた。ちょうど三陸の大津波が映っていた。これはすごい津波、とびっくりしてしまった。家や車が流されていく姿が、生々しく映っていた。それぞれの家や車の中にはまだ人がいるのではないか、と思うと気が気ではなかった。宮城県の名取市の農家もテレビに映った。大津波が、徐々に農家を飲み込んでいった。多分、あの家にはまだ人がいるだろうと思うといたたまれなかった。それからはテレビにくぎ付けだった。三陸の釜石だったろうか、高い堤防を越えて津波が町を飲み込んでいくのが生々しかった。
問題は津波だけではなかったことが分かった。福島の双葉町にある原子力発電所が、津波に襲われて爆発してしまったのだ。今まで大きな原子力発電所の事故は、ロシアのチェルノブイリとアメリカのスリーマイル島の事故が有名だ。しかし、9年経ってみると、この原子力発電所の事故が何よりも大きな影響力を持っている。
今から考えると、まだ技術開発が完全でない原子力発電所を見切り発車したのが、この事故につながった。あの当時は、コストの安い原発をどんどん作れと号令がかかっていた。まるで、そのしっぺ返しのような事故であった。あの原発事故さえなかったら、東日本大震災ももっと変わった様相を表していたに違いない。この大震災での死者・行方不明者と関連死者は2万2167人である。
被災地は徐々に旧に復しつつあるが、どうにもならないのが原発事故跡地だ。40年で事故跡を旧に復する計画だったが、9年経った今もほとんど見通しが立たない。この間、太陽光発電や風力発電などの新電力が開発されつつある。一部ではあくまでも原発にこだわっている勢力があるが、なぜなのかわからない。多分、原発で利益を受ける人がいるのだろう。
あらためて東日本大震災を反省するとき、どうしても原発はやめたいと思うのが人情である。それが技術的にも可能な時代なのだ。
【3月10日の歩行記録】4,260歩 2.9㎞
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