カテゴリー「海外旅行」の131件の記事

2019年6月12日 (水)

№4189 ジャカランダの花を見に行こう

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 皆さん、ジャカランダという花を知っているだろうか。桐の花のような紫の花だ。日本でも咲いているところはあるようだが、少ない。私がこの花を見たのは、2006年5月~6月にポルトガル旅行をした時である。リスボンの街は、紫色のジャカランダの花でいっぱいだった。まるで日本の桜が満開のときのようにだ。

 ジャカランダに強い印象を受けて、長い間、再度ジャカランダを見たいと思っていた。日本に帰って調べてみたら、どうやらジャカランダは南半球の花で、アルゼンチンやオーストラリア、南アフリカで10月~11月に見られるという。特に、南アフリカのヨハネスブルグやプレトリアが有名という。プレトリアは「ジャカランダ・シティ」と呼ばれ、街に7万本もの花が咲いているという。さらに、南アフリカは観光するのにもケープタウンやヴィクトリア滝、象やライオンを見る自然公園など見どころ一杯のようだ。

 年初から南アフリカ旅行を胸に秘めていたが、さていつ女房に告白しようか迷っていた。そして、夕食時についに告白した。女房は二つ返事で、「いってきたら」と軽く返事をした。実は、女房もこの6月に北欧旅行を計画していた。それが突然の発病で、来年に延期になった。

 南アフリカに何しに行くのと聞かれたので、主な目的はジャカランダのお花見だといった。女房が、「それなら私も行きたい」と言い出した。ポルトガルの旅行のときには、女房のほかに横浜の姉も一緒だった。ジャカランダの花に強い印象を受けたのだろう。女房は、さっそく北欧旅行に行くはずだったある友だちを誘っていた。

 誘われても、半月もの旅行計画だ。友だちもすぐに返事とはいかないようだ。それを聞いた女房も、「彼女が行くなら行くし、行かないならやめ」るのだそうだ。いずれ大蔵省の許可をえたので、この計画は進めよう。

 飛行機の手配や宿の手配など、そろそろと準備にかかる。飛行機は25~30時間もかかる。

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2019年4月30日 (火)

№4146 私の平成海外旅行史 その2

 さて、今日で平成は終わる。明日からは令和だ。昨日の記事の続きを書きたい。

 私は2006(平成18)年11月末、60歳の誕生月の月末をもって退職した。もう12年半になる。昨日も記したが、退職後の生活はとっても充実していた。2007(平成19)年4月には那須に陋屋を求めた。手帳を繙くと、買った当初は、那須にはずいぶん通った。そして、2008(平成20)年1月にこのブログを始めた。ブログは11年3か月になる。ずいぶん長いようで、あっという間だ。

 このブログを始めて、海外旅行の記録が見れるようになった。カテゴリーの「海外旅行」の欄を見ると、いつどこで何をやったのかが読み取れる。この欄を久し振りに読みながら、私の海外旅行史を見てみたい。

 2007(平成19)年1月に、退職後初めて女房と二人で11日間のタイ旅行をした。このアルバムもブログに残っている。改めてみてみたが、本当に懐かしい。ラオスとの国境の町ビエンチャンまで汽車旅行をした。さらに、チェンマイから一昼夜かけてコ・サムイ島まで夜行バスで走ったのも懐かしい記憶である。

 海外旅行ではないが、2009(平成21)年、兄弟姉妹で沖縄旅行を楽しんだ。前年に、仙台に住んでいた弟が亡くなった。弟の嫁さんも沖縄に同行したが、沖縄のホテル滞在中、弟の誕生日だった。盛大に亡き弟の誕生日を祝ったのは、今でも記憶に新しい。

 2010(平成22)年、HISの格安ツアーに乗って、中国3泊4日の旅をした。一緒に行ったのは、これも女房と横浜の姉だった。こう見ると、横浜の姉とはずいぶん一緒に海外旅行をした。川崎に住む姉も海外旅行に誘ったが、彼女は一貫して「海外旅行には行かない」という主張を繰り返している。私には十分楽しい中国旅行だったが、同行の二人は不満だったらしく、「もう二度と中国には行かない」と言っていた。

 2011(平成23)年、女房と二人でヴェトナムのホーチミン市を旅行した。この話を聞きつけた友人のTakii夫婦が、「私達もヴェトナムに連れて行って」とリクエストがあり、2012(平成24)年11月にご夫婦と一緒に行ってきた。この時はヴェトナムだけではなく、カンボジアのアンコール・ワットまで足を延ばした。よほどこの旅が楽しかったらしく、その後も「またヴェトナムに行きましょう」と誘われているが、実現していない。旅は一回限り、のものなのだ。

 2013(平成25)年5月、横浜の姉夫婦とわが夫婦でドイツ旅行を計画していた。旅行直前、秋田に住む兄の危篤が伝えられ、海外旅行は中止になってしまった。Takii夫婦も一緒のはずだったが、彼らだけで旅をしたらしい。何より一番ガッカリしていたのが義兄のFumioさんだ。この旅を楽しみに、日ごろ鍛錬を重ねていた。それでも、旅の途中で亡くなり急遽帰国になったら大変だったね。

 2014(平成26)年の海外旅行はなかった。その代わり、2015(平成27)年は二度の海外旅行をした。一度目は2月に女房と台湾旅行、二度目は12月に一人でミャンマー旅行をした。2016(平成28)年3月、孫二人を連れてハワイ旅行をしたのも新しい記憶である。その年の11月、また一人旅行でタイのスコータイを訪ねた。

 そして、2017(平成29)年は二度の海外旅行をしている。一度目は3月のモロッコ旅行だ。これはツアーだった。11月に、15日間かけて南コーカサス・トルコを旅してきた。さらに、2018(平成30)年、これもブログで詳細を綴ったが、キューバ・メキシコ15日間の旅をした。こうやって旅行できたのも、気力の充実と健康があればこそだった。最近、気力の衰えとともに、果たして今後旅行が続けられるかどうか心配である。

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2019年4月29日 (月)

№4145 私の平成海外旅行史 その1

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 さて、明日4月30日で「平成」が終わる。ここで、私の平成海外旅行史を振り返ってみるのも、意味がないわけではないな。メモ魔ではないが、私は手帳に記録を取っている。その手帳を久し振りに取り出してみたら、1978(昭和53)年からの記録が残っていた。残念ながら、2~3年の記録は紛失していたが、その手帳をくくりながら平成30年間と4か月の海外旅行史を見てみたい。

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 平成の半分近くの17年間は、サラリーマン生活を送った。その後の14年は、悠々ではないが引退生活だ。今から考えてみると、サラリーマン時代よりも2006(平成18)年11月末の引退後は、ものすごく充実していたように思える。ただ、サラリーマン時代の手帳は、毎日が飲み会とゴルフで真っ黒だ。現役時代、よくぞあれだけ酒を飲んだものだ。

 さて、平成になったのは、1989年1月であった。思い出してみると、そのころは大変激動の年だったような気がする。日本はバブル景気に沸いていた。一方、中国では6月4日に天安門事件が起き、中国はさながら内戦状態だった。さらには11月9日、東西を分断していたベルリンの壁が崩壊した。世の中は一体どうなってしまうだろうか、世界中に不安が広がった。さらに今考えてみると、バブルは私のようなサラリーマンには一切影響を与えていない。儲けもしなかったが、そんなに損もしていない。

 個人的にみると、私はその年の8月に初めて海外旅行を経験している。会社の同僚にタイ=フリークがいて、長期休暇がとれたのでどこに行こうかと彼女に相談した。「タイが断然いいわよ」というので、海外初旅行は往復航空券だけ買って、バンコクのドンムアン空港に降り立った。空港でホテルを紹介してもらい、タクシーでそのホテルに着いた。ほとんど言葉も話せない私にとって、今から考えると何とも無謀旅行だった。

 ただタイに嵌って、その後も何度かタイ旅行を重ねた。個人旅行の時もあったし、女房と二人のときもあった。そうだ、女房とおふくろと次男の4人でタイ旅行も楽しんだ。手帳を詳しくくくるといつか分かるだろうが、ザッと見ただけではいつ行ったのか、探し当てることはできなかった。

 1993(平成5)年には、再度、タイのバンコク経由でインド旅行をした。これも個人旅行で、8月5日から17日までの12日間だった。ニューデリーからカルカッタまで、これも無計画で歩いた。ずいぶん怖い思いもしたが、何が怖かったかといって、ニューデリーの到着時が怖かった。ニューデリーに着いたのが夜中の1時半ころだ。ホテルも予約していなかった。空港を出ると、真っ暗だ。今から考えたら、空港で素泊まりしたらよかったのに、無謀にもタクシーを拾って街に出た。とんでもないことだった。ただ、このインド旅行は印象深かった。

 1995(平成7)年は、これもまた大変な年だった。1月には阪神淡路大地震が起き、3月にはオウムの地下鉄サリンバラマキ事件があった。今から考えると、同じ時間に私は地下鉄銀座線に乗っていた。幸い、銀座線には影響がなかったが、車内放送で事件が起きた放送を聞いていた。そして、8月には同業仲間のGyuちゃんと二人でトルコ旅行をした。これも個人旅行だった。夜行バスでカッパドキアから帰ってきたのを思い出す。これも記録では探せなかったが、その後、女房と二人でトルコ旅行を楽しんだこともあった。

 1996(平成8)年に、これも8日間の航空券や宿の手配をネットでしてイタリア個人旅行をした。この旅行の同行者は、女房と横浜の姉だった。航空券や宿の手配をネットでした初めだ。ローマ経由でヴェネチィアに到着したのが夜中の12時半だった。私が予約したプチホテルを探し当てるのに1時間もかかってしまった。この旅行で、ばったり友だちに出会った。フレンチェのウフィツィ美術館前で、Kiyomiさんはツアー旅行で来ていたが、個人旅行の私たちと出会ったのだ。彼女とは旅行前に飲み会をやっていたが、一切旅行の話はしなかった。それだけにびっくりした。

 1997(平成9)、中国の上海を訪ねた。これは会社の部課長会旅行で、2泊3日の旅だった。上海で一行と別れ、仲間4人で寧波に行ったのも懐かしい思い出である。その後も韓国旅行、台湾旅行、ベトナム旅行などを繰り返した。

 2006(平成18)年、退職前の特別休暇旅行で行ったのが、スペイン・ポルトガルの13日間のツアー旅行だ。同行者は女房と横浜の姉、さらに姉の友だちの4人だった。この旅行の写真は、「シンさんちの繭の里通信」のアルバムに残っている。興味のある方は、赤字をクリックしてみてください。

 退職後の個人旅行史は、明日の記事で綴ってみたい。

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2018年11月19日 (月)

№3990 持って行った本は読んだのか

 この旅行記の中でほとんど触れてこなかったことがある。今回、厚手の文庫本を10冊持参したのだが、今日はどこまで読んだのかを報告したい。

 いつでもそうなのだが、私にとっての海外旅行は、「読書の旅」でもある。前にも報告したが、海外での夜遊びはほとんどしない。夕食が終わると、まっすぐホテルに帰ってくる。部屋には必ずテレビは置いてあるが、テレビを見ることもない。ひたすらブログを書くことと、本を読むことだ。

 今回も、メキシコシティには飛行機で14時間かかった。その長時間飛行は、私にとっては至福の時間だ。誰にも邪魔されずに、読書に浸ることができる時間だ。10冊持参した文庫本だが、今回日本に帰国するまでに8冊を読了した。ちょうどよかったのではないかな。今日は、どこで何の本を読んだかの報告をしたい。

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 まず、行きの飛行機で読んだのは馳星周『パーフェクトワールド(上)』だ。1970年、沖縄返還をめぐるごたごたの中で、警視庁から特別派遣された公安警察官・大城の物語だった。この大城が特別の悪で、自分の情報をもとに犯罪行為を重ねていくストーリーだった。行きの飛行機で(上)を読み終わり、(下)はハバナのホテルで読んだ。トータル1094頁あった。

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 次に読んだのが、新田次郎『劔岳 点の記』だ。新田次郎の本はかなり読んだはずだが、本書だけは読んでいなかった。ハバナからサンチャゴ・デ・クーバは長時間のバス旅行だったが、バスの中では本が読めない。バスは室内の電気を消して真っ暗にしていたし、天井灯もともらなかった。結局、読み終わったのはハバナに帰ってきてからだ。

 国土地理院が全国のあらゆる場所に三角点を埋設して、測量を行っている。明治の中頃、ただ一点白紙の状態の場所があった。未踏といわれた劔岳だ。その頂上に「点の記」を打つ物語だった。先人の苦闘がしのばれた。407頁だった。

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 北方健三の本は、どんなに長編であっても流れで読み切ってしまう。今回読んだのは、『草莽枯れ行く』だ。幕末の尊王攘夷の運動の中で、上州浪人・相楽総三、博徒・清水の次郎長、剣客・土方歳三等の動きを追う話だ。700頁に及ぶ長編だったが、ハバナのホテルで読んだ。

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 内田康夫の『化生の海』 は、主人公浅見光彦の事件簿だ。私は内田の本は最近読み始めたばかりだが、浅見光彦を主人公とした本は、これで何冊目だろうか。内田の本は魔法のようなもので、読み始めたら止まらない。北海道の余市で忽然と姿を消した男の死体が、加賀の橋立で見つかった。遺族の依頼を受けて、推理を働かせ、見事解決に導いた浅見だ。ただ、この時点でも警察は解明できていなかった。559頁を読み終わったのは、メキシコのホテルでだ。
 
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 火坂雅志『青き海狼』も夢中になって読んだ本だ。読んでいたのは、メリダからカンクンのホテルでだ。鎌倉幕府を襲った蒙古襲来だが、2度は幸いの嵐で退けた。ただ、フビライ汗は、日本襲撃をあきらめていなかった。三度目は、前の襲来に輪をかけて大きなものになりそうだ。主人公・朝比奈蒼二郎は、時の執権の密命を受けて大陸に渡った。モンゴルの動きを探るためだ。この物語は日本と中国だけではない。ベトナムの動きも絡ませ、壮大なスケールの718頁に及ぶ歴史小説だった。

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 最後のメキシコのホテルで読んだのが、宮部みゆき『名もなき毒』であった。宮部の文庫本は、読もう読もうと旅行中に持ち歩いていたが、結局最後になってしまった。宮部は読み難い、という先入観があったのかもしれない。案に相違して、そんなに抵抗感もなく読めた。

 トラブルメーカーの原田いずみをめぐる物語だ。彼女は経歴詐称の履歴書で、ある会社に入社した。ところがとんでもないことに、仕事ができなかった。それに平気で遅刻はするし、休暇を取ってしまう。たまりかねて、解雇にしたのだが、それがまたトラブルを生む対象になった。607頁に及ぶ長編だったが、すんなり読めてしまったね。

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 最後に帰りの飛行機の中で読もうと残しておいたのが、池井戸潤『アキラとあきら』だ。池井戸の本は、安心してどこでも読めるのがいい。今テレビ放映されている『下町ロケット』も、昨年話題を読んだ『陸王』も上質な小説だ。

 今回の小説は、零細工場の息子・山崎瑛(あきら)と大手海運業者の御曹司・階堂彬(あきら)をめぐる物語だった。メキシコから帰りの飛行機は真夜中の出発ということもあり、皆さん電気を消して寝静まっていた。私の席だけが、天井の明かりで照らされた。帰りはほとんど寝ずに、この小説に没頭した。これも713頁に及ぶ長編小説だったが、帰りの長期の飛行機も苦にならなかった。

 今回の旅で読んだ本は、計8冊・4800頁ほどだった。足掛け23日間の旅行にしては、いいペースだった。今回は、読書でも忘れられない旅になった。ひとまず、キューバ・メキシコ旅行記はここまでとしたい。

 

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2018年11月18日 (日)

№3989 大冒険から無事帰る

 足掛け23日間にわたる海外旅行から無事に帰ってきた。今朝6時に成田空港に到着し、そのまま自宅に帰った。昨晩はメキシコ~成田14時間の旅だったが、ほとんど寝ていないのではないか。

 急いで自宅に帰る必要もないと、高速道路は使わずに一般道で帰った。まあ、寝不足でヘタに事故を起こさないようにと、運転には慎重になった。だけど、一般道で帰ってきても高速とほぼ同じ時間だった。朝9時半には、自宅に着いた。今は眠いけど、ぐっと我慢して夜ぐっすり寝るのが時差解消の秘訣だ。

 今回のキューバ・メキシコ旅行では何も不満はなかったが、ただ麺類がなかったのが不満といえば不満だ。帰る途中ラーメン屋はないか探しながら運転していたが、さすが朝の早い時間なので、ラーメン屋はやっていなかった。仕方がない、Yうどん店でてんぷらそばを食べた。

 名誉のために名前は伏せたが、このチェーン店はこんなにもまずかったかな。蕎麦はべちゃべちゃしていて腰がない。蕎麦のたれもしょっぱいのだか甘いのだが、ピリッとしなかったね。まあ、それでも麺が食べたかったという欲求はひとまず解消した。女房もそれを考えたのか、お昼はラーメンを作ってくれた。

 途中風邪は引いたが、それでも深刻にならずに済んだ。海外旅行に行くといつもそうなのだが、強烈な便秘に見舞われている。私は体に言い聞かせて、朝食後はかならず便を出してすっきりしている。

 それが、海外に行くと時差には慣れても、体がいうことを聞かない。便は、ある時間を決めて定期的に出すのがいいんだよね。それが、海外に行くと体も迷ってしまうんだろう。いつ便を出していいかわからなくなってしまう。

 それと、便秘のもう一つの原因は水だろうね。水が変わると、便が出にくくなるのはどうしてだろうか。まあ、普段の生活で徐々に慣らしていくしかないよね。さらに下ネタでもう一つ。私は前立腺肥大で、絶えず薬を飲み続けている。この薬が、旅の途中で切れてしまった。薬が切れると、途端におしっこの出が悪くなる。旅の最後は苦しんだネ。

  持ち帰った荷物は、大きなスーツケースが2つとザックにショルダーバックだ。内実は、笑ってしまうが、大半が洗濯物だった。天気が良かったので、2度に分けて洗濯した。モノ干し場は、洗濯物で一杯になった。

 この旅行で書かなかったこと、書けなかったことを時間をかけて徐々に皆さんに紹介していこうと思っている。何よりも、皆さんが私のブログに興味を持っていただき、一緒に旅行した気分になっていただけたと信じている。

 長い旅行の紀行文だったが、ご愛読ありがとうございました。ブログは、まだまだ続きますよ。

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2018年11月17日 (土)

№3988 旅の最後はトロツキー博物館へ

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 レオン・トロツキーを知っているだろうか。彼は、レーニンとともにロシア革命の原動力になった人物だ。ガイドブックで【レオン・トロツキー博物館】を見つけた。旅の最後に行ってみようと、楽しみにしていた。

 1924年、レーニンの死とともにトロツキーはスターリンと重大な路線対立を起こした。トロツキーは永遠革命を主張し、スターリンは一国社会主義を主張した。結局、トロツキーはこの路線対立に負け、1929年国外退去になった。その後、トロツキーは暗殺を恐れ、イスタンブール、パリ、オスロと転々と居を変えた。そして、最後にメキシコでスターリンの暗殺団に殺された。1940年(昭和15年)の事だった。

 私は、学生時代トロツキーの著作を何冊か読んでいる。もちろん、トロツキーがメキシコで暗殺にあったのも知っている。しかし、ガイドブックで【レオン・トロツキー博物館】が紹介されてるのは知らなかった。これはぜひ行ってみたい。

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 博物館は、メキシコシティの郊外にあった。タクシーで50分ほどかかった。ただ、タクシーで降りたのは、博物館とは違う場所だった。街の人に聞きながら、5分ほどで博物館にようやくたどり着いた。

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 玄関には、ロシア革命が成功した時の有名なレーニンとトロツキーの絵が飾ってあった。レーニンの死後、ロシア革命はずいぶんゆがめられていった。だんだん、スターリンの独裁が始まったのだ。ロシア革命の同志は、スターリンに次々と抹殺されていった。1930年代、スターリンは同胞を300万人以上殺したとされている。

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Img_7470  トロツキーは、スターリンの魔手を逃れるために居を転々と変えざるをえなかった。このメキシコの住居も、厳重に防御がなされていた。屋根には銃眼のある砦があった。壁は20cmもの厚さがあっただろうか。さらに、寝室は5㎝幅の鉄板で覆われていた。街路に面した窓には、さらに鉄板が張られていた。

 暗殺時、住居には何人かのガードマンもいたようだ。それでも破られ、暗殺されてしまった。今でもそうだが、政治テロはとどまることを知らない。狙った人間は、必ず殺してしまう。最近のサウジの新聞記者の遭難を思い出す。

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Img_7474  この建物の裏に、トロツキー夫婦のお墓があった。奥さんは1961年にパリで亡くなったようだ。トロツキーは忘れられた政治家かというと、決してそうではない。現に、そんなに混んではいなったが、次々とこの博物館には訪問者が訪れていた。若い人が多かった。

 この博物館の入口には、キューバ革命の記念写真も多く飾られていた。カストロやチェ・ゲバラの写真も多かった。キューバ革命の根は、トロツキーに共通するということだろうか。

 そういえば、昨年ジョージア訪問でスターリンの生家も訪ねた。私の昨年の南コーカサス訪問、今回のキューバ・メキシコ訪問に一本の道筋が見えた。

 旅の掉尾の【レオン・トロツキー博物館】訪問は、キューバ・メキシコの旅に意味をもたらしたのではないか。

(この記事は、メキシコシティのホテルロビーで書いているが、アップされるころには、もう自宅に着いていると思う。)

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2018年11月16日 (金)

№3987 最後の夜はマリアッチ

 カンクンからメキシコシティまで飛行機で帰ってきた。カンクンのホテルに脅かされ早めにホテルを出、午前10時前に飛行場に着いたが、チェックインは自動券売機で簡単にできた。しかも、日本語での手続きだったので、何の問題もなかった。空港では、待ち時間が長かった。

 午前11時40分発の飛行機が、メキシコシティに着いたのは午後1時10分頃だ。これは時差のごまかしがあり、乗っていた時間は2時間半ほどだ。真夏のカンクンから帰って来たのだが、メキシコシティは驚くほど寒かった。

 ホテルは、前回泊まった同じホテルだ。大半の荷物をこのホテルに預け、ザックに5日分の着替えと着るもの、ショルダーバックにパソコン、ガイドブックだけでユカタン半島を回ってきたが、手軽でよかったね。
 さて、今晩はどうしようか。日本にいてもそうなのだが、この旅行でもほとんど夜遊びはしていない。夕方7時頃、ホテルに近くで晩飯を食べ、そのままホテルに帰って来る日々だ。ただ、今晩だけはマリアッチを聞きに行こう。マリアッチを聞くのは、ガリバルディ広場だ。タクシーで150ペソ(約1000円)かかった。

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 ただ、この晩も引き続き寒く、気は重かった。ようやく治った風邪がぶり返すのではないか、心配だった。ガリバルディ広場は寒風が吹きすさんでいたが、広場のあちこちで演奏が始まっていた。音楽はテンポが良く、ヴァイオリン、チェロ、ギター、トランペットに歌手の構成だった。客一組にこの楽団が演奏しているようだ。

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 あるレストランでは、別の楽団が客に音楽の演奏しているようだった。ガイドブックによると、一曲100ペソ(約670円)というが、果たしてどうなのだろうか。とにもかくにも寒いので、建物の中に入った。そこはレストラン街だ。

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 えいやっとある店に入った。体が冷えているので、暖かいものが欲しい。メニューはスペイン語だけだ。写真があったので、スープと焼き肉を頼ん だ。どんなに寒くても、やはりビールは欲しいね。ここのスープは、思いのほか美味しかった。

 一人でレストランに入ると、食べ切れないほどのものが出てくる。昨晩もカンクンのレストランで3品注文したが、最後に出てきたピザはほとんど残してしまった。体重は計っていないが、どうもこの旅で相当太ったのではないかな。

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 ガリバルディ広場のレストランでも、2品とビールで十分お腹がいっぱいになった。このレストラン街にも演奏家がたくさんいた。日本でいえば、流しのギター弾きといったところか。
夜遅くなると、広場には演奏家は増えてくると思うのだが、寒いのでこの日は早々にホテルに引き上げた。

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2018年11月15日 (木)

№3986 カンクンの街をぶらり歩く

 カンクンは、メキシコ最大のリゾート地だ。客は国内だけではなく、海外からも押し寄せる。目的は、カリブ海に面する海の白砂青松である。私も、この街で存分にリゾート気分を味わうことにした。

 ホテルのフロントで、ラグーン(岩礁)にどうやって行くか聞いた。そしたら、「タクシーで250ぺソ(約1600円)くらいかかるのでもったいないですよ。すぐ近くの角から頻繁にバスが出ています。R1番線かR2番線のバスなら行きます」というので、バスに乗ることにした。

 本当にバスは頻繁に来た。しかも1回の乗車が、どこまで行っても12ペソ(約80円)だった。これはいいね。どこまで行くのか、試しに乗ってみた。折り返し地点に来て、運転手が降りないのかという顔をしていた。慌てて降りた。このラグーンは、全長22㎞あった。とてもじゃないが、歩ける距離ではない。

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 しばらく歩いていたのだが、暑くてまたバスに乗った。便利なことに、このラグーンでは手を上げるとどこでも止まってくれる。道沿いは、巨大なリゾートホテルが建ち並んでいた。ガイドブックによるとホテルは230棟ほどあるとあったが、まだどんどん建ち続けているようだ。

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Img_7443  ある砂浜でバスを降りた。カリブ海の海の色は、アクアブルーそのものだった。砂浜に降りてみたら、砂粒は白くて細かい。多分、サンゴの砂ではないかな。

 海で泳いでいた人もいたが、ウィンドサーフィンや落下傘のようなもので空に浮かぶ遊びをしている人もいた。11月でこれだけ暑いのだから、一年中遊べるのじゃなかしらね。

 スピードボートでジャングル探検という冒険ツアーもあるようだ。2時間で90ドルだと言っていた。旅も終わりに近づき、財布も心許なくなりつつある。ここは諦めよう。

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 海に面したレストランで、お昼はホッとドックとビールで済ませた。目の前では、水遊びをする子供がいた。延々と続く砂浜は、リゾートホテルのプライベートビーチなのかしらね。ハワイでもそうだったが、ホテルは海が目の前でもプールがある。

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 昼食を済ませ、さてカンクンの街に出てみよう。また例のR1のバスに乗った。中心街に出てみたが、雑然としてみるべきところがなかった。さらに、R1のバスに乗り、ラグーンに帰ってきた。おや、アウトレットという看板がある。お土産を買おう。

 さて、ホテルに帰るとするか。またバスに乗った。さあ、どこで降りるんだろうか。よく注意して外を見ていたが、わからなかった。あるところで、エイヤッと降りてみた。タクシーの運転手にホテルはどこか聞いてみたら、なんと目の前だった。

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2018年11月14日 (水)

№3985 チチェン・イツァ遺跡見学

 カンクン訪問の最大の目的は、チチェン・イツァ遺跡を見学することだ。今まで、メキシコシティでテオティワカン遺跡を見学し、メリダでウシュマル遺跡の見学をした。この日のチチェン・イツァ遺跡で、メキシコの三代遺跡を見学することになる。

 朝7時ホテル発のツアーに乗ることにした。ホテルチェックイン時に予約したつもりが、7時に玄関に出てみたら、すでにバスは出発していた。ホテルのフロントに聞いてみたら、正式な予約は受けていないという。予約した時点で、お金約9,000円を払うべきだったのだ。

 さてどうしようか考えていたら、ある方が「バスステーションからチチェン・イツァ行きのバスが出ているよ」と教えてくれた。別にツアーに乗るのが目的でないので、バスステーションで往復チケットを買った。結果大成功で、半額以下で目的地に行くことができた。

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Img_7396  チチェン・イツァまでは、行きが2時間半かかった。驚いたことに、平日にもかかわらずチチェン・イツァはものすごく混んでいた。観光バスが何台も停まり、遺跡にもものすごい人だ。どうも、ここはカンクン最大の観光地らしい。

 ツアーに乗っても、英語の解説は半分も理解できていない。行き帰りのチケットだけでよかったのだ。ここはガイドブックに従って、忠実にこの遺跡を歩くことにしよう。ガイドブックによると、8つのポイントがあるらしい。そこをなぞって歩いてみることにした。

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Img_7401  まず、第一のポイントが球戯場である。両面の長さ168m、幅70mの壁が建っていて、その間が球戯場になっている。球技は、ゴムボールを壁の穴に通すものだったらしい。石の穴のゴールは非常に高いところにあり、この穴にボールを通すのはなかなか難しかったようだ。

 この球技は宗教的な意味もあり、敗者は首を刎ねられたという。壁のレリーフには、生贄の神官が首を刎ねられているシーンもあった。

 それにしても、直射日光は厳しい。カンクンは亜熱帯を通りこして、熱帯に近い。一刻も早く、木陰に逃げ込んだ。

Img_7417 Img_7412  このチチェン・イツァ遺跡の最大の目玉は、カステージョ(城あるいは砦)と呼ばれている9層からなるピラミッドだ。遺跡に詳しくない私でも、このカステージョは何度も目にしたことがある。

 春分の日と秋分の日の年2回、階段に羽根のような影が出来、階段下にある蛇頭につながる不思議な現象だ。設計時に計算されたものだろうね。

 チチェン・イツァ遺跡で3か所目になる遺跡訪問だが、メキシコの遺跡は、どこも石がふんだんに使われている。よくぞこれだけ石を積んだものと、すごい迫力を感じた。

Img_7421_2Img_7434  この遺跡はマヤ文明の遺跡だが、2度の興亡があり、紀元700~900年が一つのピークで、もう一つは紀元1000年だそうだ。ここには旧チチェン・イツァと新チチェン・イツァの遺跡があった。

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 もう一つ、この遺跡の目玉は、セノーテといわれる聖なる泉だ。大地に丸い穴が開き、水がたまっている。どこからも水が流入した形跡はないという。この地は石灰岩台地であり、大地が丸く陥没して、地下水が現れたものらしい。このセノーテは、この遺跡のあちこちで見られるとのことだ。

Img_7430  炎天下を3時間も見て歩いたら、ほとほと疲れてしまった。近くのレストランで昼食を食べた。寄ってきたのが地元のカラスだ。日本のカラスとは違い、3分の一くらいと小ぶりで、足が長い。カ~~とは鳴かず、ギャッと甲高い声で鳴いていた。
 帰りのバスは、午後4時半出発だ。遺跡見学を終えて、ずいぶん時間を持て余してしまった。この遺跡に来るのに2時間半ほどだったが、帰りは4時間半もかかって着いたのが9時だ。別に渋滞したわけでもなかった。

 なぞは時差にある。メキシコは日本の5倍ほどの面積があり、人口も日本より若干多い。メキシコの一つの国に3つの時差がある。今回の遺跡訪問は、時差をまたがって起きたものだった。面白いね。日本では経験できないことだ。

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2018年11月13日 (火)

№3984 最終目的地カンクン到着

 メリダからバスで最終目的地カンクンに到着した。意外とすんなりとはいえ、様々なトラブルもあった。

 メリダのホテル受付カウンターで、カンクンに行きたいがどうすればいいのか聞いた。スーパーマーケットの隣を教えてくれたので、タクシーで行った。カンクン行きのチケットは、3,000円で無事に取れたのだが、どうもバスが発着している様子はない。

 聞いてみたら、バスステーションは別にあるらしい。タクシーの運転手が待ってくれていた。彼も、この場所がバスの発着所ではないと知っていたらしい。どうやら、私はホテルでバスチケットをどこで買えばいいのか聞いたので、チケット販売所を教えてくれたようだ。

 またタクシーに乗り、バスステーションまで行った。チケット売り場はホテルから近かったのだが、バスステーションは結構遠かった。とても歩いて行ける距離ではない。

 ステーションに着いたのは午前10時10分頃だ。午前11時発のチケットを買った。チケット売り場のお姉ちゃんが、午後5時半ころに着くと言っていた。6時間半のバス旅行を覚悟した。このステーションで、昨日のイシュマル旅行で一緒だった女性とばったり出会った。彼女は、ノーチェ(?)に行くと言っていた。

 バスは、リクライニング付きのシートで快適なものだった。ただ、バスに乗っているのはほとんど現地人だ。そして、午後4時半ころ大きなステーションに停まった。全員が降りるので、運転手にここはどこかと聞いてみた。ここがカンクンだったのだ。

 このステーションでタクシーに乗り、ホテルに向かった。ホテルバウチャーでタクシーにホテルの場所を教えたのだが、どうやら違うホテルのようだ。指定するホテルは歩いて15分だが、タクシーで行ったほうがいいよと言っていた。

 そして、ようやく目指すホテルに着いたのが午後5時半ころだ。やれやれホッとした。このホテルに3泊する予定でいる。

 さらに大きなトラブルが起きた。カンクンからメキシコシティ行きの航空券をネット予約をした。SASAKIと入力しなければならないのに、MISAKIと入れてしまった。予約情報を貰って、はじめてそのことに気がついた。

 この航空券は6,000円ほどだったが、名前の訂正には12,000円かかるというのだ。それならばと、この航空券をキャンセルして別の航空券を買うことにした。新たな航空券は10,000円ほどで買えたが、前の航空券はキャンセルできないというのだ。まあ、自分が間違えたのだからしようがないか。

 一人旅にトラブルはつきものだ。これも旅行だね。

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